2020-11-16

noteとcakesのホームレスルポの炎上について、坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』の担当編集者として何か言うべきだと思いつつ、一筋縄ではいかないものを感じていた。
書くことや取材することについての意識の低さであったり、編集サイドの拙さを指摘することはできる。だが同時に、2000年代以降、為政者たちによる都市空間からのホームレス排除が行われてきたことの一つの帰結とも思えてならないのだ。

以下は、私の前著『メモリースティック』の第2章冒頭部に収録された断章である。
本でも、この並びで配されている。できればこの順序のまま、最後まで読み進めてほしい。雨宮処凛『生きさせろ!』から坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』へ。さらに言うなら、現在の伝統芸能への関心まで、私の中ではすべてつながっている(本書のこのパートに続く、女装やセクシャリティの問題も)。

本の宣伝がしたいわけではないので、当該パートを全文転載する。
ほとんどの人には無関係な文章の連なりかもしれないが、ただ一人、誰かに届けばいい。

■生き延びるための技術

「建築家」にして「作家」にして「芸術家」にして「新政府内閣総理大臣」、そして最近は「夢師」なる肩書きも名乗る坂口恭平。いったい何者なんだって話だが、ここ数年の彼の足跡を辿ってみたら、少しは見えてくるものもあるかもしれない。

最初に坂口が世に知られるきっかけとなったのは、2004年に出版された『0円ハウス』(リトルモア)。路上生活者のブルーハウスを観察し、「これこそ理想の家ではないか?」という視点を提出したバイリンガル仕様の写真集だ。建築の世界には「建築家なしの建築」(ルドルフスキー)という系譜があるが、この時点で、坂口はそのニューカマーであったともいえる。

『0円ハウス』は海外で評価され、ケニアのナイロビで開催された世界会議フォーラムにも呼ばれるなどの反響を呼んだ。国内でも、『0円ハウス』取材の延長で雑誌「AERA」に書いた記事がきっかけとなり、坂口が“隅田川のエジソン”と呼ぶ路上生活者・鈴木さんの生活を密着取材した『TOKYO 0円ハウス 0円生活』(大和書房)を上梓。路上生活のエコロジカルな生態系や経済圏をあますことなく伝える内容が話題となり、坂口は路上生活のフィールドワーカーとして知られるようになる。

2010年、さらなるフィールドワークの成果をまとめた『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版)を発表。ここにきて路上生活者による「0円生活」は「都市型狩猟採集生活」と名指され、現代の都市を生きる人間なら誰しも参照しうるノウハウにまで高められた。

ここで重要なのは、坂口が主張しているのは路上生活のススメではない、ということだ。まずは都市を高い解像度で眺め、そこにあるさまざまなレイヤーを発見すること。そういうとなんだか難しく聞こえるが、ようは「街が見せるいろんな顔にもっと気づこうぜ」と。道路脇のただの段差もスケートボーダーにとってはいいアプローチだったりするし、ガラ空きの駐車場をフットサルコートに変えてしまう子供たちもいるだろう。24時間営業のファミレスを仕事場として使っているホワイトカラーだって少なくないはずだ。かつて私たちの先祖が海の幸、山の幸で暮らしたように、都市にも生活のためのいろいろな“幸”が見つかるはず。そう指摘する坂口は、「空間を知覚する建築家」であるともいえる。

坂口がどのように空間を知覚するかについては『TOKYO一坪遺産』(春秋社)という本が詳しい。知覚のサンプルがいくつも解説されているが、その中には近代文学の小説にまで空間を発見する「立体読書」という方法も記されている。

そんな坂口が3・11へのリアクションとして新たに始めたのが、新政府活動である。

福島第一原発の事故に対して、いち早く東京から熊本へと避難した坂口は、自らの拠点をゼロセンターと名付け、避難民の受け入れを始めた。そして、現政府の対応への不信感が募る中、単なる批判ではなく、「そっちがやらないなら、こっちでやるよ」式に動くために新政府を起ち上げ、自ら総理大臣に就任した。新政府の最初の政策は、福島の子供たちを熊本に無償で受け入れる「0円サマーキャンプ」だった。

一見、突拍子もない行為に見えるが、坂口のやっていることは一貫している。解像度を上げよ。空間を知覚せよ。国家や政府という単位の中にもさまざまなレイヤーがあるはずだし、新たにつくり出すことだって可能なのだ。その具体的なやり方は坂口の新刊『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)をぜひ読んでみてほしい。

そもそも土地とはなにか。家とはなにか。「住む」とはどういうことなのか。私たちが思い込まされているレイヤーをちょっとずらしてみるだけで、そこにはさまざまな可能性が見えてくる。

試しに家に車輪をつけてみればどうか。こうするだけで「家」は、住むことのできる「車両」へと変貌する。しかも地面に接地していないので、土地に縛られることなく、どこにでも置くことができる。こうして構想されたのがモバイルハウスだ。

0円ハウスをモデルに、ホームセンターで買って来た材料でつくられた初代モバイルハウスは、総工費たったの2万6000円。当初は吉祥寺の駐車場に置かれ、いまは熊本のゼロセンターヘと移動している。なにも坂口は誰もがモバイルハウスに住めばよい、と主張しているのではない(もちろんなんらかの理由で財産のすべてを失った人にとってモバイルハウスは福音かもしれないが)。ただ、私たちがマイホームを建てようとすれば、たいてい何千万円というお金がかかるし、その前に土地も手に入れなければならない。そんな現状に、2万6000円のモバイルハウスを対置させてみれば、見えてくるのはその幅の中にある多様な「住まい」の選択肢だ。坂口は新政府の次なる政策として「0円特区」を掲げ、そこにモバイルハウスを置いて暮らせるようにしたいという。この坂口のアイデアに対して、すでにいくつかの自治体が関心を持ち、接触してきている。海外からの関心も高く、8月中はスロベニアのアートフェスでモバイルハウスをつくり、さらに9月にはベルリンでモバイルハウス展覧会をすることが決まっている。

前置きが長くなったが、そのための渡欧壮行会と、アルバム《Practice for a Revolution》の発売記念として8月4日に渋谷のさくらホールで行われたのが、「坂口恭平リサイタル」である。

アルバム? リサイタル? なんじゃそりゃ、と思われる方もいるかもしれない。歌うんです、この総理は。19歳のときにすでに路上演奏でお金を稼いでいたというから、けっこうなキャリアである。インターネット生放送のDOMMUNEで坂口がやっているレギュラー番組でも、真面目なトークの締めになぜか坂口の弾き語り、というのがお約束になっている。

アルバムのリリース形式も、坂口らしくトリッキーだ。リリースレベールである土曜社は、明治から大正にかけて生きたアナーキスト、大杉栄の著書をリイシューしている出版社だ。大杉栄の 『日本脱出記』に収められた「魔子よ魔子よ」という詞に、坂口がメロディをつけてレパートリー曲としていることから、土曜社が手を挙げた。ちなみに今回のリサイタルの主催も土曜社である。

開場10分前、さくらホールに着くとすでに行列ができていた。ひと足先に会場に入れてもらうと、ちょうどリハーサルの最終チェック中。リサイタルを記念してつくったというTシャツを着込んだ土曜社代表、豊田剛の長身が目立つ。《Practice for a Revolution》の録音を担当したエンジニアの塚田耕司が、PAを通したアコギの鳴りをチェックしている。

壇上の坂口恭平は渡欧前のハードスケジュールで少々お疲れ気味だが、案外、初めてのホールライブでナーバスになっていたのかもしれない。本番に異常に強い坂口だが、バックステージではギリギリまで緊張するタイプだ。あえていえば、臆病。だからこそ坂口は常にあらゆる可能性を想定し、準備を怠らない。しかし、本番では平気でその予想や準備を裏切り、爆発する。この繊細さと豪快さの空中ブランコが、パフォーマーとしての坂口恭平のキモである。

定時に開場すると、ロビーではCDやTシャツが飛ぶように売れている。客層は老若男女、見事なほどバラバラだ。みな、「坂口恭平リサイタル」という冗談半分のイベントを楽しんでいるように見える。入り口で配られているウチワには白地にピンクで「坂口」、裏返すと「総理」の文字が。土曜社もノリノリである。

700人強の客席がほとんど埋まった。最初に豊田の挨拶が軽くあり、拍手とともに坂口恭平入場。「総理!」という野太いかけ声が飛ぶ。
「今日はみなさん、ジャイアンリサイタルヘようこそ」軽く自虐を交え、でも続く言葉が坂口らしかった。
「あのドラえもんの空き地のような気持ちで、今日は楽しんでいってください」

ボサノヴァ風のリフからビートルズ〈Blackbird〉のイントロに導かれ、〈新政府ラジオのテーマ〉へ。新政府ラジオとは坂口のツイッターのタイムライン上で展開されるYouTubeを使ったDJのこと。最近ではUstreamを使った生放送も行っている。そんなラジオジングルから間髪入れずに〈魔子よ魔子よ〉へ。前述したように、大杉栄がパリ近郊のメーデーで演説を行った罪で牢屋ラ・サンテに投獄された際に、娘の魔子に向けて書いた詞があり、それを坂口が曲へと仕上げた。

大杉栄と魔子の関係に、坂口恭平と坂口の愛娘、アオちゃんの関係がどこかダブる。大杉の詩に、坂口が付け足した「なんだこのわけのわからぬ生の翳かげりは/なんだこのわけのわからぬ生の叫びは」というエモーショナルな一節と、シンコペーショナルなギターの伴奏によって、大杉のソウルは換骨奪胎され、坂口のオリジナル曲へと生まれ変わっている。

ここでMCへ。小学生時代のこっくりさんの話。正確にはこっくりさんに呪われたという「イリュージョン」の話だ。「呪い」という一見、姿カタチのないものが、人々の思い込みによって実体を持つ。その不思議に気づいた坂口少年。すべての知覚は幼年時代に始まっている。

「高円寺の四畳半時代に作った曲」と前置きして、〈Anokoe〉。ループするコードにラップ調のボーカルが乗る。ファルセットも決まり、ミュージシャンのライブっぽくなってくるが、なればなったでちょっとおかしい、という不思議な空気が漂う。

再びトークヘ移行。このあたりで観客もこのリサイタルの流れをつかんできた。すなわち、歌もトークも同等のものとして混じりあった“坂口恭平ショウ。というか、そもそも坂口のトークは音楽的なのだ。

それにしても、このパートでのトークは興味深かった。『独立国家のつくりかた』の第一章に子供時代のドブ川遊びの話が書かれている。その話に興奮して電話(坂口は自分の携帯番号を著書やウェブで公開している)を掛けてきた読者が、「忘れてましたけど、意味、全部わかります」という感想を伝えてきたそうだ。坂口は言う、「みんな忘れていると思っているけど、ホントは忘れていないはず」。自分はただそのことを本に書いただけ。そこにはなにも独創的なアイデアは存在しない。ただ、誰もが身に覚えのあるはずのことを言っているだけなのだと。

坂口自身、クリエイティビティはすべて幼年時代に開花している。ただ、彼はそのことをずっと忘れていないだけなのだ。段ボールとカーテンでつくった自動販売機の話。クラスメイトの面白さ。やはり重要なのは知覚することである。このあたりから曲よりもトークの時間が長くなってくるが、会場の熱はより高まる。

トークのグルーヴを生かしたまま、〈オモレダラ〉へ。ケニアのナイロビで教わったスワヒリ語の民謡がもとになった曲だ。さらに、リズムとキーをキープしつつ電気グルーヴ〈虹〉のカバー。アコースティックでこんな繋ぎをするのは、坂口ぐらいのものだろう。

ゼロセンターを訪ねてきた中学生トモアキの話。トモアキは自分でモバイルハウスをつくりたいそうだ。理由は「みんなで集まれる場所をつくりたいから」。「オレの話は小学生や中学生のほうがストレートに通じるんだよね」と坂口。

最後はブルーハーツの大名曲〈Train Train〉。フォークアレンジされたサウンドに乗せて歌われるあの歌詞が、いまこの時代によく響く。

これにて本篇終了――と思わせて、シャウト。
「プレイ・ファッキン・ラウド!!」

突然鳴りだしたドラムとベース音に合わせてステージ後方の幕が上がると、そこにはバンドの姿が。坂口はアコギをエレキヘと持ち替え、そのまま〈魔子よ魔子よ〉へのイントロヘとなだれ込む。ベースに橋本悠、キーボードは街角実。ふたりは坂口がかつて組んでいたMANというバンドのメンバーだ。MANのドラムを担当していた菅田光司郎はすでにこの世を去っており、代わりにceroや片想い、またソロでも活躍するミュージシャンのあだち麗三郎がスティックを握っている。このサプライズがまた新たな空間を生み、それまで席に座っていた観客も自然と総立ちに。激しいエレクトリックバージョンの〈魔子よ魔子よ〉。間奏では坂口のギターソロも。

バンドサウンドのまま、今度は本当にラストの曲〈牛深ハイヤ〉へ。亡くなった菅田が坂口に教えてくれた熊本の民謡だという。ロックアレンジが施されているが、「ハイヤー」という節回しから、坂口の中に息づくルーツである九州の大地の鼓動が伝わってくる。いやルーツだけではない。さまざまな要素がこんがらがっている。ディランもブルーハーツも、アフリカも、九州も、そして大杉栄も。

1923年、大杉はフランスヘと渡り、パリの牢屋ラ・サンテで「魔子よ魔子よ」の詩を書いた。帰国後7月に『日本脱出記』を上梓。8月に関東大震災に遭遇し、そのドサクサの中で虐殺された。

「死んではいけない」と坂口は言う。人はみないつか死ぬが、それでもその日まで「死んではいけない」と。そう、モバイルハウスも、都市型狩猟採集生活も、空間の知覚も、新政府も、0円特区も、鼻糞と接吻も、すべては生き延びるための技術なのだ。それは、「技術」という意味を持つラテン語“アルスやギリシャ語“テクネー”を語源にした、本来の意味での「アート」にほかならない。

■100回目の三月の5日間

「首都圏でやることもできました。でも、ぼくたちはそうせずに熊本でやったわけです。今日、公演を観ながら、そうしてよかったと思いました。初めてこの作品が、“日本”のことではなく“東京”というひとつのローカルを描いているんだということがわかったからです。つまり、東京という単なる地方の話なんだと。そうぼくには見えて、面白かった」

2011年12月9日から11日までの3日間、劇団チェルフィッチュは代表作『三月の5日間』の100回記念公演を熊本市の早川倉庫で行った。作・演出の岡田利規は、公演後に行われた記念パーティの挨拶で以上のような話をした。

「いいねえ。最近、オザケンも同じようなこと書いてなかったっけ?」
隣りの席で聞いていた坂口恭平が、ぼくにささやく。言われてみればたしかにそうだ。11月29日付で小沢健二公式サイト「ひふみよ」にアップされた『東京の街が奏でる』と名付けられたコンサートの告知文には、こう書かれていた。

「『東京の街が奏でる』の“東京”は、首都としての東京ではなくて、ローカルな場所としての東京です。ローカルな場所というのは、東京から首都が移転して、大企業の本社が全部引っ越して、その後でも残る東京、みたいな意味です」

かつて「渋谷系」と呼ばれる音楽シーンの中心人物のひとりであった小沢健二と、2003年のイラク戦争開戦時に渋谷のラブホテルで5日間を過ごすカップルを『三月の5日間』で描いた岡田利規が、2011年に交錯する。もちろん両者ともに海外での活動を経験することで、東京を相対化する視点を持ち得たということもあるのだろう。

早川倉庫で観る『三月の5日間』は、浅草木馬館で観る大衆演劇のようでもあった。築130年の木造倉庫、親子連れ、温かい飲み物。俳優はひとりずつ観客の前に現れては、目の前でこれから起こることを説明するのだ。
「(これは)ミノベって男の話なんですけど――」
本来なら舞台に異化効果をもたらすはずのこんな台詞が、そのまま観客に配慮した単なる説明としてストレートに聞こえてくるから不思議だ。東京の渋谷という場所で、ぼくらはセックスをしたり、デモがあったりしたんですよ。それをいまから演じますね――。ただそれだけのことだ。

終演後、岡田の挨拶に続いて出されたべジ料理や地酒の美味いこと。100回記念で用意されたレモンとチョコレートのケーキに、100回の公演すべてに出演した俳優の山懸太一が入刀する。岡田の息子のヒビキくんと坂口の娘のアオちゃんがうれしそうにそれをほおばった。ヒビキくんによる今夜の『三月の5日間』評も聞けた。
「いつもは分かりづらいんだけど、今日のはわりとよかったよ」
岡田が韓国から来ているコ・ジュヨンを紹介してくれた。彼女は舞台芸術における日本と韓国の新しい交流の可能性を探っているという。当然それは、熊本に移住したことで東京よりも近距離となった隣国に対する岡田の関心とも重なってくる。

岡田利規と坂口恭平が公の場で初めて話をする機会を持ったのは2011年2月。まだ10ヵ月しか経っていない。神奈川芸術劇場で上演されたチェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』のポストパフォーマンストークでのことだった。まさかそのときには、『三月の5日間』の100回記念公演が熊本で開催されることになろうとは、誰も予想していなかったはずだ。

未曾有の震災が起こり、深刻な原発事故がそれに続いた。東京に住んでいた坂口恭平は故郷である熊本に移住し、家族と暮らすマンションとは別に、月3万円で借りた古い木造一軒屋を「ゼロセンター」と名付け、避難者の受け入れを始めた。その呼びかけに最初に応じたのが岡田利規とその家族だった。岡田はその後、妻の強い意向もあり熊本への移住を決めた。

「定住と移住」は『ゾウガメのソニックライフ』のモチーフでもあった。「放射能からの避難として熊本に移住すること」は妥当な行動なのだろうか。答えの出ない問いだ。正解はない。それよりも重要なのは、岡田利規が熊本での100回記念公演によって、今後の活動の指針となるであろう現状認識をいち早くカタチにしてみせたことだ。

翌日、坂口の案内で、国指定重要文化財である八千代座を見学する。明治43年に建てられ、かつては芸術座の松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ったこともあるというこの古式ゆかしい劇場は、現在では坂東玉三郎の歌舞伎公演などが開かれることでも知られている。八千代座二階席の欄干を掴みながら坂口が言う。
「ここでいつかチェルフィッチュに公演してもらえたらいいよね」

平山源泉で疲れを流し、夜は、昨夜の100回公演記念ケーキをつくったという女性ふたりがカウンターに入っているバー、PAVAOで飲んだ。そこに公演を終えたサンガツのメンバーや公演スタッフたちが合流してきたので、みなで連れだってゼロセンターへ。

熊本のよさを味わえば味わうほど、東京という地方のよさもぼくはこの手で見つけたくなった。

■穴底に突き当たるまで

2年前のことだ。池袋のジュンク堂書店で杉田俊介が参加するトークセッションを見た。杉田の前著『フリーターにとって「自由」とはなにか』と、やはり杉田の寄稿している『ネオリベ現代生活批判序説』のダブル刊行記念イベントである。

このとき、質疑応答の際に観客から「杉田さんはもっとぐったりしたほうがいい」と指摘されたことが、杉田の新刊『無能力批評』のなかでも少しだけ触れられているが、現場にいたぼくは思ったのだ。たしかに杉田は“ぐったり”とまではしていなかったものの、それにしたって、もうひとりのスピーカーの軽やかな弁舌に比べれば、ほとんどの時間、発言もせず、うつむいたままで、その重苦しさはトークセッションとしてちょっとどうかと思うくらい際だっていたぞ、と。まるで、杉田の周りだけが一段強い重力場となっているようですらあった。もっとも杉田自身も、観客の指摘とは裏腹に、その「重さ」や「ぐったりとした感覚」に対しては戸惑いと自己批判の中にいるようだったが。

そのような重心の低い身体性は『フリーターにとって「自由」とはなにか』からも、すでに感じとることができた。『フリーターにとって「自由」とはなにか』を原作として演劇作品『エンジョイ』をつくった劇作家の岡田利規は、派遣労働者役の女優が傾斜した床の上を寝ころんだままゴロゴロ転がり落ちるといった演出をつけていたが、あれは、杉田の著作を、「重力をめぐる物語」として捉える読みだったのではないかと思う。

そして『無能力批評』において、杉田はついに、あの「重さ」や「ぐったりとした感覚」を含むエレメント、すなわち「無能力」の検討にとりかかる。まるで海底にタッチすることでしか海面上に浮かび上がることはできない、とでもいうべき徹底さでもって。

ぼくにも身に覚えがある。20代後半にしてなにもするべきことがなくなってしまった日々。足掻けば足掻くほどずぶずぶとはまっていくような、煽られれば煽られるほど沈んでいくようなノレなさ、できなさ、腰の重さ。あの“ぐったりとした感覚がいまも身体に刻まれている。

「賃労働や経済活動にたどりつかず、『いつか働くかもしれない……』という潜在状態に、永久にとどまり続ける、生」

「あんたらの望む望まないにかかわらず、無所有になっていくほど、自立を惨めに剝奪されればされるほど、あんたの人生はあんたのものになっていく」

そのあまりにも身も蓋もない人生の穴底に、誰とも替えのきかない「個体化」された生そのものが鉱物のように転がっているのだと、杉田は言う。生ぬるい地獄を生きるのではない。地獄そのものを掻き分けていくほどに、ほかに替えの効かない私の人生と出会うのだと。

かくして本書は、わが身に深く錨を降ろすようにして、「文芸批評」「労働運動」「障害者福祉」という三つの世界を捉えながら、穴底にわずかに差し込んでくる光を私たちにも乱反射させる。まぶしくはない。ただただ薄暗く、ほのかな光だ。

ぐったり以前に、単なる惰性でもあるぼくにとって、本書は重かった。読み進めるうちに、ずいぶんとしんどくもなってしまった。ただ、この重さが必要なのだ。たしかにそこには深く沈潜してみることではじめて突き当たる、醜悪だが向きあうほかない私の人生の手応えがあるから。

■Kのこと

雑誌『フリーターズ・フリー』のイベントや、ぼくが編集した雨宮処凛さんの単行本『生きさせろ! 難民化する若者たち』関連のシンポジウムなどでよく見かけるKという男がいる。

聞けば、半年前まで静岡の自動車工場で働いてたのだが、2ちゃんねるで「政治意識」に目覚めたそうで、いまは新宿のネットカフェに寝泊まりしながら、それっぽいイベントに顔を出しまくってるという。

このK、二言目には「金持ちをブッ殺したい」「大企業を潰したい」と口にすることからもうかがえるように、とくに高尚な思想なり思惑なりを持ちあわせているような男ではない。ただ、その吃音の端々から滲みでる「なんかすごいことをやりたい」という宿意に触れるたび、ぼくはまるでいましろたかしの漫画『デメキング』の主人公、蜂屋みたいじゃないかと思ってしまうのだ。

それにしても、かつてなくデメキングの影を身近に感じる時代である。

いましろはやはりド天才なのだろう。今回、『デメキング』の復刊にあたり描き足した2ページも、ブレなく時代を撃っている。ぼくなりに解釈させてもらえば、こんな感じか。デメキングはいる。そう、あなたのすぐ隣りに。

■切断線に差し込む未来

かつて児童相談所の一時保護所で夜間指導員をしていたことがある。子どもたちと一緒に寝泊まりする歌のお兄さんみたいな仕事だ。というと、ほのぼのした感じもあるが、もちろんそれだけではない。一時保護所は行政が介入したあらゆるケースの子どもたちを引き受ける。ケンカで相手に傷害を負わせてしまった子も、性風俗で働かされていた子も、カルト教団の施設で暮らしてた子も、酒鬼薔薇聖斗を真似て同級生の机に猫の頭部を置いた子も、出所後の行き先はどうあれ、みな同じ部屋で寝泊まりするのだ。

ちょっと極端な例を挙げたが(だがすべて事実だ)、当時もいまも圧倒的に多いケースは親の虐待からの保護だろう。いまだに思い出すことがある。彼や彼女のうつろな目。肉体的外傷だけでもぼくの想像を遙かに超えたものだったし、それ以上に自分をこの世に誕生させた人間から承認されないという事態に直面した彼や彼女の顔、顔。

彼や彼女の壺は根源的な怒りと悲しみで充満し溢れそうなほどパンパンなのに、彼や彼女の多くはそれをどうやって外に発散していいのかわからず、ちょっとしたきっかけで暴発させてしまう。厄介なのは、壺のフタが意外にも厚いということだ。彼や彼女はどんなにヒドイ目にあわされてもなお、非は自分の側にあると考える。身体の痛みに耐えながら、それはコミュニケーションの一種であってほしいと願う。でないと自分のこの「生」は承認されえないから。だから彼や彼女は親の目を常に意識する。親の期待を予測し、先回りし、いい子であろうとする。やがて彼や彼女は周りの大人や友だちとの関係においても、自分に期待されるべき像を必死で演じはじめるだろう。

映画『思い出のマーニー』の冒頭のアンナの表情に、あの頃に出会った彼や彼女たちの顔が重なった。といってもアンナは虐待されていたわけではない。それどころか実の親の顔すら知らない。アンナの両親は、彼女が物心つく前に亡くなってしまったのだ。

マーニーがアンナにボートの漕ぎ方を教えるシーン。オールを握るアンナの手に、マーニーがそっと手を添える。世界を寄る辺なく漂っていたアンナの、ある方向へと漕ぎ出す瞬間の表情、その手応え。直後、アンナへの全幅の信頼を背中で伝えるかのように、マーニーは舳先にすくっと立ち、『タイタニック』のケイト・ウィンスレットよろしく両腕を広げる。なんともでたらめで、なんとも頼もしい姿じゃないか。「幽霊じゃないよね」アンナがマーニーに触れてみる。現実をファンタジーとして捉えるのではなく、ファンタジーに現実の手触りが加わっている。米林宏昌監督の前作『借りぐらしのアリエッティ』にも横溢していた感覚だ。

とりたててすごい冒険があるわけではないのに、潮の満ち引きのように変化していくマーニーの存在感と、目をきょろきょろしながらそれについていくアンナの躍動感。「animate」(生命を吹き込む、活気づける)のプロセスを、イチから辿り直すかのごとき物語に、新しいジブリの息吹を感じた。

「どうか、君自身の未来の他者たちが、さらに君をも正しく捉え損ね、切断し、裏切ることを、信じてくれ。そのことを喜んでくれ」

杉田俊介の新刊『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』は、宮崎アニメと向き合った著者が子どもたちに全身全霊で語りかける本だ。杉田にとっては『無能力批評』以来、4年ぶりの著書となる。その間、杉田は介護の仕事と子育てに勤しみながら、子どものとなりでよく宮崎アニメのDVDを観るようになったという。

杉田にとっての宮崎アニメのクリティカル・ポイントは、次の箇所に集約される。

「アニメという物語商品は――それ自体が子どもたちを金銭的・魂的に喰い物にする危うさを孕みながらも――、子どもたちに『なにものにも喰い殺されるな』というメッセージを伝えるものでなければならなかった。子どもたちを喰うことによって新しい命を産み直す、という奇妙な絶対矛盾」

このジレンマに焼き付かれるような自己への厳しい視線は、なるほどこれまでの杉田の著作とも重なるところがある。宮崎アニメを時系列で読み込んでいく杉田は、「自死を決めたナウシカが再びこの黄昏と恥辱の世界に戻ってくる、と決めたのは、王蟲によって『食べられる』という捕食の経験を通してだった」と指摘し、私を食べよ、誰かに善く食べられよ、と言う。それは「animate」の語源であるラテン語「anima」から派生した「animal」の感覚に接近する。すでに言葉や物語は、太古の昔から食物連鎖を繰り返してきたのだ。

「1+1」という数式が成立するとき、そこには両者を媒介する第三項としての「1」があるはずで。愛、家族、カネ、宗教、価値、言葉、社会――それをどう呼ぶかは人次第であり、そもそもそんなふうに名付けるのは人間ぐらいなものだが、飴屋法水による公演『教室』は、その「1」を素手で数えあげようとする演劇作品だった。

「お父さんはさー。なんで、お母さんを、選んだの?」
「近くに、いたから」
「それだけ?」

『教室』は、実際の家族である飴屋一家、つまり飴屋と飴屋の妻であるコロスケ、さらにその娘である、くるみの3人によって演じられる。家庭の場面では家族として、教室の場面では先生と生徒として。

ある日の教室、先生役の飴屋が自分の父親の骨壺を取り出し、中の骨を机の上に広げてみせる。さらにフライドチキンも取り出すと、鳥の骨はゴミ箱に捨ててしまうのに、人間の骨はなぜ捨てないのか、という問いを立てる。人間と動物の境界線はとても危うい。

「あなたは、私といて、幸せですか?」という母親の問いに父親はまっすぐには答えない。答えたくないのか、答えられないのか。その一見シリアスなシーンに、娘のくるみがイルカフロートにまたがり居合わせている。ボートの舳先に立つマーニーのようなでたらめさで。そのとき、ぼくの頭に浮かんだのは古今亭志ん生のこんなクスグリだ。

「なんだってあんな亭主と一緒になったんだい?」
「だって寒いんだもん」

くるみがハンドルを握りクルマを運転している。最後のシーンだ。そういえば2年前、同じ場所で自転車に乗った飴屋がクルマに轢かれる芝居を観たことを思い出し、笑いそうになってしまった。くるみのクルマはガタゴトといった感じで、飴屋とコロスケからどんどん離れていく。

■野宿者/ネオリベ/フリーター

先月の生田武志×白石嘉治×杉田俊介トークセッション「野宿者/ネオリベ/フリーター」について。あいかわらずぼくは杉田さんの沈鬱さや、白石さんのお調子者スレスレともいえる軽ろやかさ、生田さんの誠実な語り口(「野宿者の授業」で培われた部分も大きいのかもしれない)などについて考えていた。

トークショーは生田さんの語る野宿者問題の現状報告が中心だった。生田さんの口から語られた言葉はとても重く、動揺もさせられたのだけど、トークショーに対して抱いていたぼくの期待はほとんど満たされずに終わった。

ぼくにとって生田さんの著書『〈野宿者襲撃〉論』が衝撃なのは、たとえば以下のような引用箇所に込められた情動による。

今、子どもたちに何かがあると思わざるをえなかった。
何よりも彼ら(青木悦の前著に反応してきた大学生たち――生田)は『殺られた側』の野宿生活者の状況に視線を向けるよりも、「殺った側」の少年たちの方に感情的に同調していた。
言葉としては少年たちを許せないと言い、野宿生活者の状態を何とかしなければならないのでは、と語った。しかしその言葉はどこかタテマエのように聞こえた。事件の話になるとそろって口が重くなり、自分の学校での生活を語り、自己の悩みを語り、少年たちの暴力を肯定はしないものの、どこかかばっていこうとする姿勢に、私はそう感じたのであった。事件の話を何回くり返しても、問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける、そういう感じがあった。
彼らは、この問題を客観的に具体化していくには、悩む時間がこれまでの人生の中にあまりにも少なかったように、私には思えた。
事件を、失業の問題、社会的差別の問題としてとらえようとしていた私は、その意味で強い味方にたってくれると思っていた大学生に失望した。同時に、自分の、あまりに皮相的な見方を反省させられた。事件を、いきなり社会問題としてとらえていくことは無理だと思い、そこにいくまでの途中として彼らと話し合っていこうとしたが、そういう考え方じたい、まちがっていたと思った。中学生といい、大学生といい、若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題であることに気づいたのだった。
(青木悦『やっと見えてきた子どもたち』)

ここで言われているような若者たちの「イライラ」について、生田さんは考える。「まったり革命」の限界、「出会い損ね」への出会い損ね、居場所の崩壊と過剰適応……。「死=存在とはなにか」という問いが切迫する「ねじれ」の時間、それが「隣接」を通じて別の共同性のあり方へと拓けていくくだりは震えて読んだ。抽象的なところなど、いっさいなかった。

隣接性を通じた別の共同性のあり方。そんなものがありうるのだろうか。

終章で生田さんは1990年、西成暴動での体験について触れる。暴動のただ中にどこからともなく現れた少年たち、少女たち。

日雇労働者・野宿者をめぐる釜ヶ崎の現状が突然シンクロして、日本全国から若者たちを引き寄せる。若者たちは日雇い労働者や野宿者の状況についてはほぼ何も知らなかったし、また日雇い労働者・野宿者も若者たちのいる状況についてはほぼ何も知らなかった。しかし、このお互いの理解せず、理解されない関係が、そこではめったにありえない「共闘」となっていた。
この共闘関係は4〜5日で消滅し、若者たちは寄せ場から消えていった。彼ら彼女らにとって、あの暴動はいまどういう形で残っているのだろうか。そして、釜ヶ崎にいるわれわれにとって、あの予期しない突然の共闘関係は何だったのだろうか。多分、「これは自分の問題だと思った」と若者に言われたとき、われわれは寄せ場・野宿者の運動の今までとはちがう可能性を与えられていた。それに気づかなければ、社会運動としては多分終わっているような何かの可能性に。
(生田武志『〈野宿者襲撃〉論』)

若者と野宿者との間に起こる襲撃は、1968年革命以来の普遍的問題を凝縮する「最悪の出会い」だった。それは、別の「出会い」へ転換されなければならない。そして、われわれは若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出そうとしてきた。もちろん、こうした出会いはそれだけでは「二つのホームレス問題」を解決することはできない。しかし、この「二つのホームレス」の出会いは、従来の「資本・国家・家族」の原理を更新する「連帯と共闘」「別のルール」を予告する。
(同書)

「野宿者/ネオリベ/フリーター」という今回のイベントタイトル、ちょっとどうかと思うほど直球なのだが、もしそのような並記になんらかの可能性を見るのであれば、それは上記のような箇所においてだろう。“その先”についても考える契機になるかもしれないとジュンク堂まで出かけたわけだが、残念ながらそれは果たされなかった。生田さんはフリーターと野宿者の連続性を示唆しながらも、基本的に野宿者の概況を説明するにとどまった。あえて自分の役割として「状況」を届けることにこだわったのかもしれない。

打ち上げの席で生田さんに、「“襲撃”する側の話がほとんど出ませんでした。でも『〈野宿者襲撃〉論』で描かれた若者の側の話も聞きたかったです」と言うと、

「共感するものがあったんですか?」
「いや、共感というか、あの“生きづらさや“イライラが自分たちにも通じるような――」
「何年生まれですか?」
「1976年です」
「そうですか。ぼくはあの若者たちにはまったく共感できません」
「あっ、いや、そういう……」

恥ずかしかった。生田さんがいま渦中にいる現場へのイマジネーションをすっとばして、突然、“襲撃”する側のことを持ち出したりした自分に。屹然と「共感できない」と言われて、それはぼくの言い方が悪かったのもあるんだけど、青木悦が書いてる「問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける若者」イコールそれがオレ、みたいな。言い訳がましく、自分も学生時代に寿町で野宿者支援に関わっていた話をしたりしたけど、生田さんの現場のリアリティに気圧されてかえって動揺してしまった。

打ち上げ後、生田さんたちは池袋で野宿者支援に関わってる人たちの夜回りに随行するというので、恥ずかしさを抱えたままついていく。
「池袋の野宿者は段ボールを敷かないんですか」
生田さんが支援者の方に聞いていたのが印象的だった。言われてみればたしかになにも敷かず、ホームの床に直接寝ている人が多い。そんな状態で何日も寝ればきっと腰を悪くするだろう。背中に堅くて冷たい床が触れる感覚。心因的な「障害」を抱えていると思われる若い野宿者もいた。

夜回りのあと、始発待ちのファミレスで生田さんを囲み、朝まで話した。自分が『〈野宿者襲撃〉論』に衝撃を受けた点をうまく伝えられなかったという後悔がどうしてもあって、児童相談所での経験も交えながら、本当に聞きたかったことについて尋ねた。

どのようにすれば若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」をつくり出せるのか。もちろんそんなのは人に聞くような、「答え」の出る質問じゃない。でも聞かずにいられなかった。

生田さんは、トークショーのときと変わらぬ真摯さで受け止めてくれた。やっぱりすぐに答えが出るような質問じゃない。

もしかしたら芸術が。それはとても自信がなくて言い出せなかったが、ぼくはやっぱりチェルフィッチュや五反田団のことなんかを考えていた。

現在の日雇労働者の野宿者問題はリハーサルであり、いずれ本番をフリーターがやる可能性がある。
(『〈野宿者襲撃〉論』)

いまいるフリーター層が高齢化すれば、ちょっとしたケガや病気で、階段を転がり落ちるように野宿者となる可能性は高い。

おおざっぱな計算だが、現在のフリーター数を内閣府の調査にあった約400万人として、そのうちたった3パーセントが野宿者となるだけで12万人。たとえばその12万人の中に自身を含む自分に近しい人が入る。そんな想像はけっして非現実的なことではないと思うのだ。

■現実を夢見る言葉の位相

ここ最近、断トツに重かった言葉は、「『黒子のバスケ』脅迫事件」で逮捕された渡辺博史容疑者の被告人冒頭意見陳述のそれで。ネット検索すれば誰でもすぐに読むことができるはずだ。まずは目を通してみてほしい。

「自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと『10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして“人生オワタ状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた』ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです」

「いわゆる『負け組』に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。〔略〕格差が開こうとも底辺がネトウヨ化しようとも、ネオリベ的な経済・社会政策は次々と施行されるのです」

「最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。『こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!』」

これらの言葉に触れた翌日、神奈川芸術劇場で地点の『悪霊』を観劇した。平日昼間からきれいな公共劇場でドストエフスキーの芝居を観ている自分と、ほぼ同世代である渡辺容疑者との断絶に、いやオレだって近い将来についてなんら保証のない浮草稼業なのだという自己弁護もしながら、ピョートルの命を受けた「五人組」がシャートフを殺害する場面を見ていた。舞台の奈落から断続的に得体の知れぬ轟音が響く。地点の劇作家、三浦基によりカットアップされたドストエフスキーの言葉は、本来、革命や宗教へと高まっていくはずの言葉が、「生きる力」に重しのようにまとわりつき、へばりつき、地中へと引きずり込むさまを描いていた。そんな悪霊の位相に、渡辺容疑者の言葉もまた巣くっている。

数日後、新木場スタジオコーストで開催された第5回高校生RAP選手権では、ぴかぴかの若者たちが揮発性の高い、未来志向の言葉をぶつけあっていた。ラップのフリースタイルでは、勝つか負けるかという社会の厳しさを体感できるし、サイファーのように有機的に混ざり合うこともできる。この共同体で問題になるのは、バックのトラックに上手く乗れるかどうかだけだ。

一緒に観戦した落語家の立川吉笑と一杯やりながら、講談や浪曲とラップの違いについて話す。歌舞伎の言葉が気になっていた。念頭にあったのは河竹黙阿弥の七五調のフォームだ。「青砥稿花紅彩画」の白浪五人男勢揃いの場、弁天小僧菊之助のレペゼンに耳を傾けてみよう。

「さて其の次は江の島の/岩本院の稚児上がり/平生着慣れし振袖から/髷まげも島田に由比ヶ浜/打ち込む浪にしっぽりと/女に化けた美人局/断のならぬ小娘も/小袋坂に身の破れ――」

ここにあるのは、いわゆる「ドラマ」ではない。「リズム」である。江戸から明治への移行期、黙阿弥は、滑るようなリズムの中に江戸の美学を封印したのだ。ドラマ性をはぎ取られた真空の位相でこそ、「正しい」も「間違い」も「真面目」も「でたらめ」もすべてが可能となる。貧しい盗賊である弁天小僧たちも、容易に義賊へと変身できるようになる。この構造は現代に至り、そのまま変身ヒーローの系譜へと受け継がれている。

グループアイドルの東京女子流が出演する映画『5つ数えれば君の夢』は、ある女子校を舞台に、文化祭の準備に追われる5人の少女の姿を描く。監督は山戸結希。2012年『あの娘が海辺で踊ってる』の衝撃以来、作品ごとに内容をスケールアップしてきた山戸だが、本作は彼女の初期代表作と呼んでさしつかえない風格を兼ね備えている。

前半、それぞれの事情を抱えた5人の行動が軽快な音楽とともに描かれるのだが、ある瞬間に世界が転調し、言葉の位相が変わる。生徒会委員長の少女が、憧れの男性にやや現実離れした言葉を告げる。
「朝起きてあなたに会うと、なんの夢を見ていたか忘れるの」
声も照明も変化している。半音階ズレた現実は、むしろ夢の手触りに近い。

「ダーリン、ゆっくり眠ってね」と言われ、コクッと頷く男。映画は明晰夢の様相を帯びる。5人の少女たちは夢を見ながら、同時に覚醒もしている。このとき言葉は、「夢の中で『現実』を夢見る場所」に置かれている。

文芸批評家の石川忠司は、吉本隆明についての小論「“大衆”の位相について」で、カフカの文体などに宿る「意識しているのに意識していない/意識していないのに意識している」という位相を、吉本の「大衆」概念に接続した。その冒頭に置かれた、スーパーカー〈Easy Way Out〉のこんな一節が思い出される。

「実際、『正しい』を前に間違いをわかって選ぶのさ」

実際、である。先のことを見通せない少女たちは「正しさ」に向けて自分を制御することができないまま、でたらめな方向へとなだれ込むのだ。

いきなりプールに飛び込む。憧れの男に「いいお嫁さんになるよ」と迫る。「正しさ」なぞ知ったことか。そして彼女たちは、でたらめだからこそ、誰も思ってもいなかったような新しい「正しさ」に辿り着いてしまう。

少女が踊る。その取り憑かれたようなダンスは、一見むちゃくちゃのようでいて、周囲の環境をファンキーに組み替えていく。それまで言葉の置かれていた場所から光が溢れ出し、少女たちに降り注ぐ。夢は現実となる。

少女たちがカラッとした青空をもたらす。いまさら水しぶきのどうってことなさ。こんな楽しげで澄んだ空気をもたらす言葉が、でたらめさが、“クソみたいな人生”には必要なのだ。