一日、資料読み。70年代に関する本を何冊も読み続け、気晴らしに仏教と瞑想の本を挟んだら、少し時間感覚を見失う。
1. 感覚は、「自然な」環境であっても現実を正確に描写するようには設計されていない。感覚は、狩猟採集民だった祖先の遺伝子をつぎに世代へ受け継がせるように設計されている。それが祖先に妄想をいだかせる――たとえば、あまりの恐怖にその場にいないヘビを「見て」しまう――ことになってもそれはしかたがない。この種類の錯覚は「自然な」錯覚で、世界、とくに社会という世界についての私たちの理解がさまざまにゆがんでいる理由、つまり、自分自身について、友人について、親族、敵。知りあい、さらには赤の他人について(これでほぼ網羅しているはずだ)ゆがんだ考えをもってしまう理由をずいぶん説明できる。
2. 私たちが「自然な」環境に暮らしていないせいで、感覚は現実への案内役としてさらに信頼できないものになっている。その場にいないヘビを見てしまうように、もともと錯覚を生み出すべく設計されている感覚は、少なくともその生物の生存や生殖の見こみを増やす利点があるといっていい。しかし。進化論の見地から祖先の役に立っていたさまざまな種類の感覚も、現代の環境によって、同じ進化論の見地から逆の結果を招く――かえってその人の寿命を短くしかねない――感覚に変質してしまう場合がある。逆上や甘いもの好きがよい例だ。こうした感覚は、少なくとも自身にとってある程度ためになる行動へ生物を導くという実利的な意味でかつては「真実」だった。だが、今では人の判断を誤らせかねない。
3. すべての根底にあるのは幸せの妄想だ。ブッダが強調したとおり、よりよい気分になろうとがんばっているあいだは。「よりよい」気分でいられるだろう時間を過大に見積もってしまいがちだ。そのうえ、「よりよい」が終われば、あとには「より悪い」がつづくこともある。いらいらと落ち着かず、もっと欲しくなる。心理学者がランニングマシンについて記述しはじめるよりずっと前に、ブッダにはそれが見えていた。
ロバート・ライト/訳・熊谷淳子『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』
しかしこの本、やや香ばしいんだよなあ。だったら私には、以下のほうが断然しっくりくる。
遺伝子は遺伝にとって好ましい行動の内に、個体がよろこびを感受するように個体を錬成してきた。個体の利己を遺伝子の「利己」から剥奪して取り出しうるのは、両者の方向が対立するという状況においてだけである。たとえば鮭の個体の内に、苦難にみちたしかも死に至る産卵のための遡行を拒否し、大海にそのまま悠々と游ぶ自由と幸福を満喫することを選択する個体がいれば、その個体はドーキンスのいう遺伝子だの生存機械ではなく、個としての主体性を確立したといえる。
真木悠介『自我の起源』