2024-08-09

午前中、リモート数件。午後、灼熱の中、神保町~銀座~渋谷と移動。あまりの暑さで、つい道玄坂を上るだけのためにタクシーを使ってしまう。おかげで案件はすべてつつがなく。

那須 それから、僕は人がぶつかる問題を、三種類に分けるって学生に言うんです。一つは、人の手を借りないで自分で解決できるタイプの問題。内容は様々だけれども、たとえば髪型をどんな風にするかとか、今日の昼ご飯に何を食べるか、とか。こういうのは自分で考えて自分で選べばよろしいという話。でも、人と協力しないと解決できないタイプの問題がある。それが、さらに二つに分かれて、気の合う仲間と一緒に協力し合ってやればいいタイプの問題と、嫌がっている人にも無理やり協力を要請しなきゃいけないタイプの問題がある。ここで「市民」と「公民」が分かれる。「公民」は、嫌だったらやらなくていいということにはなりませんよ、というタイプの事柄。そういう問題に取り組む時には、人それぞれ、では済まない。みんなの協力というのが必要だし、嫌がっている人に対しては強制力を行使すること。

黒川 つまり、「公民」には、納税の義務とかもかかってくるわけだね。

那須 そう。税の話もしますが、その二つを分けて考えたほうがいいだろうと。ここの二つがごちゃごちゃになるのも、どちらかに半減されるのも困る。
 自己解釈としての社会契約というのが一つ目の話だけれども、「社会契約説」って結局何だったのか。自分が社会の一員だと思えない人が、社会の一員だと思うように、納得するための理屈。自分が初めからはっきりわかっている人はいいけれど、そんな人はいないわけで、その時にやっぱり自分はどういう生き物なのか、ということも当然反省させられる。どういう人たちとのつながりがあるかとか、どういう考え方を背負って生きているのかを、もう一度ふるいにかけて、自分がこのような人であるとすれば、社会の一員として考える、ということを同時に成立させる。たぶん、「社会契約説」とは、どんな人でも絶対こういうことになる、という形で考えようとしたということだと思うんですよね。なおかつ、簡単には社会に迎合しない、自分はそんな人間じゃないと思うような人でも説得できる理屈を考えられるかどうか。それを考えることで、どんな人でも社会の一員なんです、と言えるようになる。でも、究極的には、自分の中にある一番強情な部分、自分を社会の一員と思えない、一人称複数の言葉をどうしても使えない、みんなに合わせることを拒むような人間が、「そう言われたらしょうがない」という形で頷く。そういう理屈を考えた。
 近代の始まりのところで、いろんな人が一生懸命「社会契約」のことを考えたのは、それこそ、キリスト教に頼って社会を作っていくことができなくなって、人間の理屈だけで乗り切らないとしょうがない。どんな社会だったら、あるいはどんな国家だったら、全ての人が必ず受け入れられるか。それは、結局、自分についての解釈を深めていくということと並行していたと思うんです。僕は、どういう理屈が最も優れた社会契約の理論なのかについては、たぶん一つに決まらないんだろうと思っているんです。これは学会の発表で言って結構叩かれたところですが、社会契約説は、無数に、n個あってかまわない。人がいたらそれだけ、一人ひとりの自己解釈はバラバラで、一人ひとり違う。だけど、自分から見たら全ての人がこう考えるはずだという理屈を、自分の中を掘って見つける。
 それがうまく成就すれば、そういう形で私はこの社会の一員になりました、と他の人にも言える。実際にn個あるかはわかんないですけど、原理的にはn個あっておかしくない。こういう作業をやらなくても済む人って、本当はいないはずだということですね。だから、遵法責務ということを考えるときに、なんでそれを考えなきゃいけないのかということは、やっぱり学者のひま仕事として、ゲームとして、言葉遊びとしてあるのではなく、また、大所高所から、立派な政府 とはこういうものだと人々に示すことを任務としている人だけが考えればいい話でもなくて、どんな人も、生きていく上でぶつかる問題として考えなきゃいけないと思いました。

(那須耕介『社会と自分のあいだの難関』)