コーボーを保育園に送り届け、その足で駅へ。最近の私には珍しい、午前の電車だ。そこまで混んではいないが、ガラガラというわけでもない。
東銀座で降りて、マガジンハウスへ。斎藤リーダー&辛島いづみさんと、ブルータスのとある大型企画のブレスト。こいつはちょっと気合い入れねばのやつ。
歌舞伎座前を通ると、團十郎白猿と新之助の巨大パネル。
奇しくも4月はメンテナンスのためもともと休館の決まっていた歌舞伎座だが、5、6、7月と襲名披露興行を控えている。いったいどうなってしまうのだろう。海老蔵改め新團十郎白猿に、またもや試練が。
不要不急とも言えぬボサボサ頭ゆえ、散髪を予約。夕方まで時間が余ったので、喫茶店を移動しながら読書。
積読の波を越え、ようやくたどり着いたテッド・チャン『息吹』。冒頭から、溜息が出るほど素晴らしい。どんなテクノロジーやファンタジーをもってしてもどうにもならない人生のもどかしさ、ままならなさ。
「なにもかもお見通しですね」とわたしは認めました。「この話が示しているのは、つまり、たとえ過去を変えることができなくても、過去を訪ねて思いがけない事実に出会うことはありうるということでしょう」
テッド・チャン「商人と錬金術師の門」(『息吹』所収)
「たしかに。未来と過去が同じものだと申し上げた理由が、これでおわかりいただけましたかな。どちらも変えることはできませんが、どちらももっとよく知ることはできます」
「最近、SFばかり読んでますよ」
髪を切りながらいつもの美容師さんが言う。
「なにが面白かったですか?」と聞くと、「テッド・チャンの『息吹』」。やっぱり。だけど、自分もまさに先ほど読み始めたということは言わずにおいて、「へえ、面白いですか」なんて返してしまう。
店を出ると、散髪の途中に父親から留守電が入っていた。折り返すと、入院している母の容体が思わしくないのであす見舞いに行ってくれ、という。
1ヵ月ほど前、足の骨折で入院した母は、その後の検査によって骨髄腫であることが判明し、数日前、専門医のいる大学病院に移ったばかりだった。幸いにも私の家からはそう遠くない病院だ。
帰りの電車で『息吹』を読み進めていると、今度は妹から着信が。妹からの電話なんてもう何年も記憶にない。
胸がざわつき、最初に停まった駅で降りて折り返すも、通話中でつながらない。また父にかけてみると、病院の先生がすぐに家族に来てほしいと言っている、と。すぐさま反対方向の電車に飛び乗る。
病室の前に着くと扉の向こうから母と妹の声が聞こえて、少しホッとした。
母は衰弱し、呼吸器もつけているが、意識ははっきりしているようだった。父親の到着を待って、別室で医師の説明を聞く。
「主治医が今日は休みなので、詳しいことは明日改めてそちらから聞いてほしい」と前置きした上で、若い医師が現時点での見解を私たちに伝える。それをすぐさま京都にいる、母の姉にあたる叔母に報告すると、スマホの向こうで叔母が言葉を失うのがわかった。
病室に戻ると、この短い間にも母の呼吸は荒くなっていた。
て、ちょ、う、と母がかすれた声で言う。筆談するつもりかと思った父がボールペンを握らせようとするが、すでに握力がなく、持つことができない。
母の荷物から手帳を取り出してめくった妹が小さく声をあげた。そこには、家族それぞれにあてた遺言が書かれていた。日付は10日前のものだ。
それからの数時間、母の容態はずっと膠着状態だった。
私はのっぴきならない締め切りを抱えている。リリー・フランキーの『東京タワー』にそんな場面があったと思い出しながら、似たようなシチュエーションが自分にも降りかかるとは予想だにしなかった。自宅で1~2時間あれば締め切りをやっつけられる。
いったん帰宅すると、時計は零時を回っていた。
深夜2時すぎ、妹から看護師が私を呼んだほうがいいと言っているとショートメッセージが入る。
すぐさまタクシーで病院に戻ると、母の呼吸はさらに荒くなっている。私は母に大声で呼びかけた。父が計器の数字を説明してくれるのだが、その説明の途中で数字がすっと消えた。それが最期だった。
「おまえを待ってたんだな」父の手が私の背中に触れる。
遺言にしたがい、仏壇にしまってあるという遺影用の写真をピックアップするため、父は車でいったん家に戻るという。一人で行かせるのは不安なので、妹に付き添ってもらい、今度は私ひとりが病院に残った。
母のエンゼルケアが済むまでの時間、誰もいない病院の薄暗いロビーで『息吹』を読む。
1時間ほどで看護師が私を呼びにきた。
静かに眠る母は、かつて見た祖母の遺骸にそっくりである。
続いて霊安室の担当者だという塩見三省似の男がやってくる。母を棺に納めるというので、再びロビーで待つ。息吹。やはり1時間ほどして呼ばれて、今度は母の棺とともに霊安室へ移動する。
祭壇に母の棺を設置したところで、塩見が名刺とともに挨拶してきた。名刺には葬儀社の名が刷られている。霊安室で一瞬、自分が何をすればいいのかを見失った私に、塩見は線香を渡すと、蝋燭に火をつけた。私が線香を上げると、塩見、さらにずっとついてくれた看護師が続いた。私は霊安室のベンチに腰をかけ、一人一人に頭を下げる。
最後に線香を上げた若い医師が、一通の封筒を差し出し、中に入っている死亡診断書の説明をしてくれた。
病院を出ると、外は明るかった。
腕時計を見ると、針が1時55分で止まっている。これまで一度だって止まったことのない時計が。できすぎだが、不思議とも思わない自分がいる。
『息吹』のせいで何度か駅を乗り過ごしてしまい、家に着いたのは、普段ならもう起きているであろう時間だった。布団に倒れ込むようにして寝た。
「おーきーてー」コーボーが何度か起こしにくる。幼い頃の私も、こんなふうにして母を起こそうとしたことがあったかもしれないな。いまは安らかに眠りについてほしい。