一日、原稿仕事。nutsmanの新しいミックスCDがよくて捗る。
「性の表現」を考えるとき、性差別や女性の抑圧を容認しても「表現の自由」を擁護するのか、それとも差別や抑圧に反対して性表現を含む性の規制を容認するのか、という選択は、少なくともフェミニズムやクィアの立場から見れば、偽の対立でしかない。そして、そのシンプルな一点こそ、私たちが――2010年代の日本のフェミニストやクィアが――ポルノ表現について考えるとき、何よりまず覚えておかなくてはならないことである。性の政治という観点から見れば、差別的あるいは抑圧的な視線の配分や表象を批判すること、性の表現への法的規制に反対すること、差別的あるいは抑圧的な文化の中で作られ、その差別性や抑圧性を反映した表現を、にもかかわらずまさにその差別や抑圧に抵抗するかたちで読み直し使い直すこと、その三点は、互いに排他的ではない。これらの論点を互いに排他的なものとして位置づけるためのマジックワードとして「性差別批判」より「表現の自由」を優先させるべきか、それとも「表現の自由」を規制して「性差別批判」を行うか、というように「表現の自由」をそこに介在させるべきではない。そのような議論の設定は、「見ること」「見られること」にかかわる、より複雑で繊細でしかし豊穣な「性の政治」の観点を、不可能にしてしまう。つまり、これらの論点を互いに対立した排他的なもの、一つを受け入れればほかは拒絶せざるを得ないものであるかのように論じるのは、それ自体がフェミニストやクィアの「性の政治」を軽視し、それに逆行することにほかならないのである。
清水晶子「ポルノ表現について考えるときに覚えておくべきただ一つのシンプルなこと(あるいはいくつものそれほどシンプルではない議論)」(『社会の芸術/芸術という社会』所収)