妻が歌舞伎観劇に出かけたため、日中タクボーと二人っきり。ミルク、オムツ替え、ミルク、オムツ替え、読書読書。
「非場所」は、かつての民俗学や人類学では研究対象とされてこなかった。なぜなら、そこに研究対象とすべき人間の営みがまとまったかたちでは存在しないと考えられていたからである。しかし、「非場所」が本当に人間的な空間ではないのかと言えば、そのようなことはない。
かつて民俗学者の宮田登は「マンションや団地などの高層建築のなかで生活する都会人たちが、毎日の営みのなかにはたしてやすらぎの空間を発見できるのだろうかという不安が誰にもある」と述べた。この文章の初出は1978年であるが、それから半世紀近く経過した現在にあって、「マンションや団地」に「やすらぎ」が発見できないという不安を感じる人はいないのではないだろうか。
むしろ現在では、かつての「団地」の暮らしは「なつかしさ」さえ感じさせるものともなっている。1936年生まれの宮田のように、「マンションや団地」が登場してまもない時期を経験した人々にとって、そこは特殊な空間だったのかもしれない。しかし、住民たちは「マンションや団地」を住みこなし、「当たり前」のものへ転換させてきた。そしてそこにはさまざまなヴァナキュラーも生みだされてきたと言える。
同様のことは、オジェが例示している 「非場所」のいずれについても指摘可能だろう。長距離トラックのドライバーたちは運転席を居室空間にカスタマイズし、独特の語彙を多用するトラック無線での会話によって仲間のドライバーと常時コミュニケーションをとってきた。下関と釜山(韓国)のあいだや、仁川(韓国)と青島(中国)のあいだを結ぶフェリーには、ポッタリチャンサ(風呂敷商売)と呼ばれる男女が乗り込み、船を半ば生活の場としながら日用品や食品の私貿易を行っている。 上海に駐在するビジネスパーソンとその家族は、「駐在先」という一時的な居住空間において、駐在生活を生き抜くためのさまざまな知恵や方法を編み出し伝承している。「世界中どこに行っても同じ」ように見える空港やホテルであっても、そこを訪れる人びとやそこで働く人たちにはそれぞれ個別の物語が無数にあるだろう。 こうした「非場所」における経験・知識・表現を民俗学的で捉えようとする際の分析概念がヴァナキュラーなのである。
『民俗学の思考法 〈いま・ここ〉の日常と文化を捉える』岩本通弥、門田岳久、及川祥平、田村和彦、川松あかり編