2020-03-21

こんな時期ではあるが、妻とコーボー一泊旅行のため、集中して読書。震災後に買い集めていたウルリッヒ・ベック。読むならいまだろうと。

以下、『世界リスク社会』 (法政大学出版局)よりメモ。

産業社会は、みずからがシステムを駆使することによって生み出したハザードを媒介にして、みずから進んでそうしたわけではないものの、リスク社会へと突然変異していったのである。そのため、保険の制限をこえて帳尻をあわせていかざるをえないことになる。こうした判断のもとになる合理性は、この社会における主要な合理性、すなわち経済合理性から生じてくる。

リスクは、現実性のある声明なのだろうか? リスクは、価値のある声明なのだろうか? 〔残念ながら、〕リスクが発する声明は、現実性のある声明でも、価値のある声明でもない。そうではなく、同時に、両方でもあり、あるいは、中間にあるもの、いわば「数値化された道徳性」なのである。リスクは、数学的な計算(おそらく、算定数値や事故のシナリオ)として、直接的にしろ、間接的にしろ、許容できる生活、あるいは許容できない生活を規定していく、文化的な定義づけと文化的な基準なのである。そのため、リスク社会においては、われわれは、人生を送っていきたいのだろうかという問いを、われわれ自身に投げかけなければならない。

一つのことだけは、はっきりしている。このような状況のなかで、どのように行動していけるのかということは、もはや専門家の手によって決定できるようなものではない。同時に、専門家の手によって指摘されはしたものの、曖昧なものにされてしまったリスクは、専門家を武装解除してしまう。というのは、リスクが、誰にたいしても自分自身で決定をおこなうように強制してくるからである。

グローバルな脅威は、既存のリスクの論理の根拠をなし崩しにしてしまい、価値のないものにしてしまう一方で、計算可能なリスクの代わりに、コントロールがむずかしい危険だけが残ってしまうような世界へ導いていってしまったのである。新たな危険は、伝統的な安全の計算方法の支柱を解体させてしまう。ダメージが一定の犯罪者に集中するということはほとんどまれなために、汚染者の脅威がグローバルにらせん状に増大していくといった最悪のケースがもたらす結果にたいして、自分に保険をかけるということも、意味がなくなってしまう。したがって、最悪のケースが起こった場合、その救済措置のためのプランはなにもないのである。世界リスク社会においては、コントロールの論理は、内側から崩壊してしまう。その点で、リスク社会は、(潜在的な)政治社会なのである。

今日では、自然について語ろうとするならば、文化について語っていくことになるし、文化について語ろうとするならば、自然について語っていくことになる。世界が自然と文化に分離するという考え方は、モダニストの思想と密接に結びつけられているが、われわれが、人工的に構築された文明世界をつくりあげ、そのなかで行動し、生きているということを認識できないのである。文明世界の特徴は、自然と文化の区別をこえているところにあるが、あいかわらず、その特微が、われわれの思考を支配している。
[略]
脅威に直面したとき、人びとは、自分たちが植物とおなじように呼吸をし、魚が水のなかで生きているように、水に頼って生きていることを実体験するのである。毒物があたえる脅威は、自分たちの身体を用いてものごとに参加していくという感覚、「意識と道徳性をともなう新陳代謝過程」といった感覚をあたえる。その結果、人びとは、酸性雨に打たれる石や木のように浸食されてしまうのである。

リスク社会における規定関係は、特定の文化的な文脈におけるリスクのアイデンティティを確保し、その評価を構造的なものにしていく、特別なルール、制度、能力をふくんでいる。このようなルール、制度、能力は、リスク政治がおこなわれていく、法的な、認識論的な、文化的なパワーのマトリックスなのである。わたしが注目する規定関係は、4つにグループ分けした問いに準拠しながら確証していくことができる。

1 生産物が無害であること、危険、リスクを誰が定義づけ、決定していくことになるのだろうか? どこに、責任があるのだろうか? リスクを生みだしてしまう人びとなのだろうか、リスクによって利益を獲得する人びとなのだろうか、リスクによって潜在的に影響を受ける人びとなのだろうか、公的な機関にたいして影響をおよぼす人びとなのだろうか?

2 原因、次元、アクターなどについて、どのような認識、あるいは非-知が関わってくるのだろうか? 証拠や「立証」をおこなう〔責任〕は、誰にあるのだろうか?

3 環境がもたらすリスクについての認識が、とうぜん、競合し、蓋然性のあるものになっていく世界において、十分に立証できるものの数に入るのは、なんなのだろうか?

4 誰が、苦しめられている人びとにたいする補償について決定していくのだろうか? 将来のダメージを抑えるコントロール規制をおこなっていくための適切な形態をなすのは、なんなのだろうか?

ハザードそのものが、ハザードをコントロールしようとする制度的なエリートや専門家の試みを一掃してしまう。もちろん、「リスクの評価をおこなう官僚制」は、陳腐な否定の決まり文句をもちあわている。衝撃と認識とのギャップを利用することによって、データが隠蔽され、否定され、破壊されてしまいかねない。〔そこで、〕反対派の議論が動員されていく。システムが抱えるリスクというよりは、人間が犯すエラーが、その一部に関わった犯人として火中に投げ込まれていく。しかしながら、安全性をめぐる約束など反故にされ、安全性を購入しようなどということもなくなった世界リスク社会において、19世紀の安全の誓約を盾にして戦っているのだから、勝利は一時的なものにすぎず、敗北の確率が高い。