朝、約束どおり「躁鬱大学」の続きが坂口恭平から届く。自分で決めた約束はぜったいに履行するのが坂口である。なので、これから日課となるだろう。
『幻年時代』のときは書き上がったばかりの原稿を電話口ですべて音読してくれた。これまで坂口の本を5冊、編集してきたが、いまだにそのプロセスが自分でも説明つかないのが『幻年時代』だ。
ベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』のような本をつくろうと盛り上がって、始まった企画だった。幼少期の遊び、発明の話。エッセイ。かわいいイラストなんかも入れて。
だが、幼年時代にダイブした坂口は海底に沈んだまま浮かび上がってこない。実際、精神の危機的状況にあった。ある日、半狂乱の坂口が電話口で幼稚園を目指す必要があると宣言し、原稿を書き始めた。一心不乱、それにどんな意味があるのか、本になるのかどうかすらわからないまま、4歳の「恭平」が母親に手をつながれ幼稚園に初めて登園するたった数百メートルの道行を、坂口は7日間にわたって書き、毎日それを私に語って聞かせた。当時、引越しを控えていた私は、ハンズフリーでそれを聞きながら荷造りをした。最終日、坂口の語りが幼稚園のそばまでさしかかった頃、私の部屋には、ほとんどなにもなく、Wi-Fiのルーターだけが光っていた。ずっと握っていた母親の手が暗号だったんだよ、と言いながら坂口は泣いた。
できあがった『幻年時代』はダジャレのような理由で幻冬舎から出版された。
反響は……いまだにわからない。直接的な反応は薄かった。いくつか核心をつく書評は出た。渡辺京二さんが熊日出版文化賞をくれて、もうそれだけでよかった。この本がウルフの『灯台へ』やイェイツの詩に匹敵する文学だということは、100年後の読者には明らかだろうから。